生きる意味ナクネ?悶々とある疑問を考えてみた

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「なんで生きてるんだろう。」や「生きる意味って何?」という僕に付きまとうもんもんとした悩みについて考えていきます。

少しでも僕と同じような疑問を抱えている方のヒントになればと思います。

 

 

目次

 

どうせ死ぬし、生きる意味ナクネ?

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 自分の人生に終わりが来ることは誰もが知っています。

「死」という言葉が「消滅」を意味することも誰もが知っています。

そしてそれは必ずやってくるものです。

どんなにお金をつぎ込もうと存在し続けることなど絶対にできません。

 そして、僕は死を考えると絶望的な気持ちになるのです。

なぜなら死ぬということは生きることの反対だから。

例えば、生を+<プラス>とするならば死は-<マイナス>だとしましょう。

こう考えると人生は最終的に、この二つが打ち消し合い最後には0<ゼロ>になるように思えます。

となると、僕たちの人生は明らかに矛盾しています

だから、僕はますます意味がわからなくなるのです。

 

大切な人のために生きる?

 相変わらず疑問は疑問のままです。

しかし、映画やドラマを見ていると「大切な人のために生きていく」という主人公が少なからずいますね。

では彼らを真似て、僕もそうやって生きることにしましょうか?

 ところで、「大切な人」と読んであなたは誰の顔を思い浮かべるでしょう?

僕は真っ先に家族の顔を思い浮かべました。

よし、では両親や妹、それからこれからできるかもしれない家族のために生きることにしましょう。

 しかし、しばらくするとさらなる疑問が僕の頭を悩ませます。

それは、「その大切な人もどうせ死ぬヨナ?」です。

はい。

ね。

いったいどうすればよいのでしょう?

 

人類のため?世界のため?

 人生の先輩方は様々な「生きる意味」を持っていらっしゃいます。

僕もそれを真似てみようとするのですが、その度に人類の高性能な脳みそが呆気なく打ち砕いてしまいます。

というのも、全ては「どうせ無くなるジャン?」で片付いてしまうのです。

「大切な人のため」は先述した通りですし、それ以外の「人類のため」や「世界のため」も歯が立ちません。

人類のために何かしても、その人類も氷河期やら温暖化やらでいつかはなくなるのではないでしょうか?

世界のために偉業を成そうにも、その世界もいつかは無くなるのではないでしょうか?

 

何にせよ、僕はいつか死ぬのだから関係ない

 いや、人類や世界がいつかは必ず滅びるというのは言い過ぎました。

僕には未来のことなど検討もつきません。

もしかすると人類も世界も永遠に存在し続けるかもしれないのです。

しかし、そんなことは僕には関係ありません。

なぜなら、僕はいつかは必ず死ぬのですから。

将来がわからないとはいえ、僕のこの人生に終止符が打たれることは確実と言っていいでしょう。

だから死んでしまえばその後のことなど、最早知ったことではないのです。

というのも無になれば、悲しむことも喜ぶことも考えることもできなくなるのですから。 

 

意味が無いなら死んでもいいのか?

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 こうなるといよいよ打つ手が無いように思えてきます。

そして同時に一つの選択肢が浮上します。

自殺」です。

この世界は辛すぎます。

その上、生きていても意味がないようです。

 僕に用意されている選択肢は2つだけです。

「生きる」か「死ぬ」か。

そのうち「生きる」が消えたなら、消去法で残るは「死ぬ」しか無いように思えます。

 

逆に死には意味があるか? 

自殺によって得られるもの、失うもの

 では逆に、生きることに意味がないと嘆くのならば、死の意味についても考えてみましょう。

死ぬことで僕が得られるものは何でしょうか?

真っ先に飛び出してきた言葉は「開放」です。

僕は自死をもって、自らを辛さや苦しみから開放させられるのです。

 しかし同時に失うものもあります。

幸福時間です。

そして残してしまうものもあります。

悲しみです。

幸いなことに、少なくとも僕には僕のことを思ってくれている人がいるのですから。

 

やはり自殺はデメリットが多い。じゃあ生きるのか?

 やはり、「早く死んで何もかもから開放されたい」という気持ちはあるものの、自殺はそれに伴う代償が大き過ぎます。

では死を選ばずに、生き続けたとしましょう。

そうすれば、死んでしまっていたら得ることができなかった幸せと経験を積むことができますね。

さらに、大切な人の心に刻まれる深い傷を、僕は残して逝かずに済むのです。

 しかし、ここでも僕は最終的には「無になる」ことを考えてしまうのです。

多幸感を味わえたから、膨大な経験を積み重ねることができたから、誰かの心に深い傷を負わせずに済んだから、だから何だというのでしょう?

どうせ死ぬ」のです。

幸せになったところで、苦労して努力したところで、誰かを思いやったところで、結局はゼロに戻る

何をしても意味が無いじゃないですか。

 そうであるなら、早く終わらせたいものです。

だから、全てからの「開放」を意味する「死」には意味があるのではないでしょうか?

 

「死ねば楽になれる」は考えてみればおかしい

 まだ結論を出すには早すぎます。

もう少し考えてみましょう。

 こんなことをあなたも一度は考えたことがあるのではないでしょうか?

「早く死んで楽になりたい」

小説や漫画でも少なからず見かける台詞ですね。

 たしかに「死」は「開放」だから「楽になる」という考えは正しいように思えます。

しかしよくよく考えてみると、ここにもまた疑問が生じるのです。

「死は本当に開放なのか?」です。

これまで何度か述べてきましたが、「死」=「無」なのです。

ではこの等式は成り立つでしょうか?

「死」=「無」=「開放」

なにか違和感を覚えませんか?

 

「開放」されたとき、どんなとき?

 では、「開放」とは何なのか考えてみましょう。

僕はこれまでの人生の中で何度か「開放」を経験してきました。

そのときに

「よっしゃぁ!開放されたーー!!」

と笑みを浮かべたことさえあります。

僕にとってのそのときとは、部活を辞めたとき、高校を辞めたとき、アルバイトを辞めたときなどです。

どうやらたいていの「開放」は何かを辞めたときに訪れるらしいのです。

 

生きることを辞めれば開放される?

 ではいっそ、「生きること」も辞めてしまいましょうか?

そうすればこの辛すぎる現実から「開放」されますよね?

 いやいや、まだ早まってはいけません。

もう少し考えてみましょう。 

 僕は「開放」にはもう一つ特徴があることに気づきました。

それは、「開放」とは行動の後に訪れるもの、ということです。

 

「例)受験生の太郎」で明らかになる「開放」の性質

 ここでわかりやすくするために、例え話をしますね。

 あるところに、太郎という青年がいたとしましょう。

 

彼は高校3年生で、受験シーズンの真っ只中。

彼は毎日、狂ったように勉強をします。

それまでの努力とは比になりません。

そして月日が流れ、とうとう試験が終わったその日、彼はきっとこう言うでしょう。

「うおーー!!開放されたーーー!!!」と。

 

 ではこの例について、少し考察してみましょう。

彼は何から開放されたのでしょうか?

それは勉強尽くめの辛い日々からです。

では、開放されたのはいつからでしょう?

それは試験が終わった瞬間からです。

つまり、試験終了を境に太郎は開放されのです。

 ここで「開放」の性質が明らかになりました。

それは「開放」は境界線よりも前には存在し得ない、ということです。

 太郎は試験がまだ終わっていないのに、

「やったぜ!俺は開放されたんだ!!」

とは言わないし、思わないでしょう。

例え思ったとしても、それは実感しているのではなく、この後に自分が解き放たれている姿を想像しているだけに過ぎません。

 

死んでも開放されない

 ここで話を「死ねば開放されるのか?」に戻しましょう。

では、先の太郎の例と同じように想像してみることにします。

 

 このブログの著者(僕)は生きるのに疲れてしまいました。

けれど、それに耐えながらも僕はなんとか人生を歩み続けます。

ですがそんな僕にも、とうとう限界が来てしまいました。

僕はある日、自ら命を絶ちました。

 

 それでは、考察をしていきましょう。

僕は自死することで何から開放されるのでしょうか?

それは生きるという苦行をこなす毎日からです。

では開放されるのはいつからでしょう?

それは僕が死んだ瞬間からです。

つまり、無になった瞬間の後に僕は開放されるのです。

その前に開放されることは絶対にありません。

 おや?

死ぬということは無になることです。

無になることはつまり、全てが消滅するということです。

心も意識も感情も記憶も。(体は死後もしばらくは残りますが、それはもはや生物ではありません)

もちろん、思考することもできなくなります。 

 あれ?

これでは「解き放たれたーーーー!!」と言う自分がいないではありませんか。

 先にも述べた通り、「開放」は境界より後に生じます。

しかし、死んでしまえば僕にはその「後」が無いのです。

つまり、自殺したところで開放されない、ということになります。

「死んだら楽になれる。」なんてことは実はありえないことなのです。

なぜならその楽になる自分が、死ねば存在しなくなるのですから。

 そうなると、「死ぬこと」にも意味が無いように思えてきませんか?

 

書籍紹介【「死」とは何か~イェール大学で23年連続の人気講義~】 

 生きる意味を考える本記事とは少しテーマが違うかもしれませんが、ご紹介したい本が一冊あります。

それは、イェール大学教授のシェリー・ケーガンさんが書いた【「死」とは何か】という哲学の本です。

本記事では生きる意味について考えているので話が少しずれてしまうかもしれませんが、生と死は切っても切れない関係です。

死にもしっかりと向き合うべきだと僕は思います。

 この本では「死ぬということは具体的にはどういうことなのか?」「死はなぜ悪いのか?」などの死にまつわる様々な疑問に淡々と向き合っています。

枚数は700ページ以上なので読み切るのは少し大変です。

が、その分死についての思考がこの1冊にぎっしりと詰まっています。

また、ちょっとしたジョークや「こんなことになるのか!」といった新たな発見もあり、死という暗い話題にも関わらず楽しんで読むことができると思います。

 哲学から見た「死」に興味がある方には是非おすすめしたい一冊です。

 

 

導かれる一つの結論、生きても死んでも意味がない

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 ここまでの思考から、1つの考えが導き出されます。

※大前提として、あくまでも個人的見解です。

 

【生きる意味】

 

どうせ死ぬ。

つまり結局は全てが無になるので、何をしても意味など無い。

人生の中でプラスを増やしてもマイナスを減らしても、最後は必ずゼロになる。

結論、生きる意味など無い

 

【死ぬ意味】

 

死ねば無になる。

そこには意識も感情も思考も何もかも存在しない。

開放も無ければ、楽になったと思うこともできない。

自分が死んだのかどうかすらわからない。

つまり死ぬことでマイナスをゼロにできるのは確かだが、それを本人は確認できない。

 また、自分が死ぬことで誰かの幸福を増やせたり不幸を減らせたとしても、死者はその姿を見ることができない。

それに、その大切な人もきっといずれは消えてしまう。

結論、死ぬ意味など無い

 

【総合的な結論】

生きる意味も死ぬ意味も、無い

 

意味は無いが作ることはできる

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 忘れずに付け加えておきたいことがあります。

本記事ではこれまで「生きる意味は有るか無いか?」という疑問について考えてきました。

しかしこの質問はさらに詳しく意味を理解しようとすると、こう言い換えられるのです。

「生きる意味は与えられているか、いないのか?」

僕は何故か、「生きる意味は与えられるもの」あるいは「生きる意味は生まれたときから持っているもの」と勘違いしていたのです。

 僕達には「つくる」という素晴らしい能力があります。

無いのなら作れば良いのです。

食べるのが好きな人は、「食べるために生きる」でもいいでしょう。

お子さんがいる人は、「自分のかわいい我が子のために生きる」でも素敵でしょう。

仕事が大好きな人なら、「仕事のために生きる」で素晴らしいじゃないですか。

 どうせ死ぬからなんだ?

全てが無になるからなんだ?

僕は生まれてしまったのです。

ならば生きなくてはなりません。

 不完全だろうと、自分なりに進んでいければそれで良いのです。

全てはその人次第だと思います。

この世界は各々の試行錯誤の集まりです。

 

※人にはそれぞれの考え方がある。他人に押し付けてはいけない

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 ここで、かなり重要なことを書かせてください。

それは、「自分の価値観を他人に押し付けてはいけない」ということです。

人は誰しも、自分なりの考え方を持っています。

それが正しいか間違っているかは問題ではありません。

どんな思想の持ち主も、自分だけでやるのは自由です。

つまり、他人に迷惑をかけていなければ良いのです。

  しかし、自身の無知さを忘れると惨劇が起こります

自分の考えが正しいものと思い込み、それを誰かに押し付けようとします。

それが時折、犯罪に発展することもあるでしょう。

 例えば、この記事を誰かに読ませると、誤解してこう言う人が出てくるかもしれません。

「自分も相手もどうせ死ぬんだから、相手を殺してもいいんでしょ?」

と。

これはとても恐ろしい考えです。

 これを読んでくれているあなたは、きっともうお分かりでしょうが、この記事での思考はあくまでも、「自分の生きる意味」についてのものです。

決して他人の人生に介入しようとするものではありません。 

 なにしろ、何が正しいのかは誰にもわからないのです。

もしかしたら、正しい答えなど無いのかもしれません。

どんなものにも、突き詰めてみれば何かしらの欠点はあるものです。

できることは、わからないなりに自分はどう生きていくかを考えていくことだけです。

 

もう一つの結論、わからないから生きる

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 今回は「生きる意味」をテーマに思考を巡らせました。

まだまだ思考の余地はありますが、ここで一段落つけることにします。

これで僕のモヤモヤはいくつか整理がついた気もしますが、逆に増えたような気もしています。

 あなたはいかがでしょうか?

 何にせよ、これだけは確かだと言えます。

それは、「まだ手札が少な過ぎる」ということです。

私達がいるこの世界は、様々な技術が発展した今も尚、未知の世界です。

僕らは一生をかけても、全てを知ることなどできやしないでしょう。

だからこそ、人生はわからないのです。

 今回のテーマである「生きる意味」もわからないからこそ、考え続けていく必要があります。

もしかすると、「生きる意味を考え続けていく」ことこそが「生きる意味」なのかもしれません