☑私は思った。
テレビを見ているとき、誰かを嘲笑っていることが多すぎやしないか。
「なにこのブリっ子!wwどこから声出してんの?www」
「絶対こいつ自分のことカッコイイと思ってる。w」
「性格悪そーー!www」
テレビに限らなくていい。
私達は一日の中で一体何回、人を見下しているのだろう?
目次
他人を否定するとき、必ず自分の問題を棚上げしている
私は考える。
私には人を否定する権利などあるのだろうか?
そもそも、その必要はあるのか?
体の中は解決しなければいけない問題でパンパンなのに、どうして他人を嘲笑えるだろう?
自ずと答えが出てきた。
人は誰かを見下すとき、自分の欠点を一時的に忘れている。
そうでもなければ、やらなくてはいけないことで山積みのこの人生の中で、あんなにも膨大な時間を他人の悪口に費やせるわけがなかろう。
だから私は考えた。
他人を揶揄<やゆ>する時間と労力を、自分の問題解決に当てよう。と。
見下すことで快感を感じる人間の性質
私は嫌気がさした。
どうして人は自分よりも下(と思っているだけ)の存在を見つけると、喜ぶのだろう?
その理由は定かではないが、昔の人間社会においては必要な能力だったから進化の過程でそのような能力が備わったのかもしれない。
しかし現代社会では、この行為は憎しみを生み出し自分の可能性を狭める結果になることが多いように思う。
だからそんな能力はもはや必要がない。
今日の私達には自身の問題点を把握した上で、今の自分にできることをコツコツとやっていく能力が求められているのではないだろうか?
だから私は考えた。
ろくに知りもしないタレントを小馬鹿にする時間と労力を、己を磨く努力に使うことにしよう。と。
嘲笑い依存症
私は考える。
快感が発生するものを程度を越して繰り返していくと、人は依存症になる。
薬物やアルコールなどの物質的なものはもちろんのこと、エクササイズやゲームといった行動も依存症に成りうる。
東京などの都心部を中心にはびこる「痴漢」という悪質極まりない行為も、ダメなのはわかっちゃいるけど止められないある種の依存症だという。
私は考える。
そうであるならば、「テレビタレントに対する嘲笑い依存症」や「テレビタレント見下し依存症」なんていうものも存在するのではなかろうか?
先述した通り、他人を揶揄するという行為にも快感は生じる。
私達はテレビ画面に向かって小言をぶつける行為を、いつしか止められなくなってはいないだろうか?
自分も気づかない内に他人を否定していないだろうか?
私は考えた。
無意識のあまり自身の行為の問題点に気付いていないことは、とても恐ろしいことだ。
だからまずは気付くことから始めよう。
この一歩が大きい。
そして、そこから徐々に減らしていこう。
簡単なことではないが、やっていくしかない
私は思った。
そうは言っても、自分の課題にだけ目を向けて着々と進んでいくなんていう聖人<しょうにん>のような生き方なんて果たして私にできるのか?
私は考える。
選択肢は2つだ。
やるか、やらないか(できないも含む)だ。
ではやらない人生は一体どうなる?
こうなる。
己のことは棚に上げて他人をあーだこーだと言う一生。
論外だ。
これで2つの内1つが消えたから、残る道は必然的に1つしかない。
どうでもよい他人のことには目もくれず、我と真剣に向き合う人生だ。
難しいかもしれないが少しずつでもやっていこう。
まとめ
私は考えた。
これまでの思考を簡潔にするとこうなる。
どうでもよいことに、時間や労力という人生の貴重な財産を奪われるな。だ。
そして私達は自分にとって必要なものは何なのか、どちらの方が重要か、常に見極めていく必要がある。
~ 私の思考はこの先も一生続く...。~