抱えきれない幸福は人を不幸にさせる

 どうも、もよりねんたです。今回は自分哲学です。僕個人の考えを書いていきたいと思います。

 「幸せになりたい」「幸せでありたい」とは誰もの願いでしょう。それは素晴らしいことです。

 幸せとは何でしょう。これは人によって違うと思います。人生を楽しむこと、家族と過ごす時間、自分よりも高い壁にチャレンジすること、様々です。

 幸せというものを量で測れるとしたら、幸せでない人は当然0に近い数字に、反対に幸せであればあるほど数字は増えていくことでしょう。しかし、幸せとは多ければ多いほど良いものなのでしょうか。人生が一生をかけて歩く道のりだとして、僕らは荷物を背負った旅人です。もしもその荷物の中に幸せも一緒に入るのだとしたら、果たして幸せとは本当に多ければ多いほど良いものなのでしょうか。

 と、こんなことを最近考えていたので、今回はそのことについて書いていきます。

 

あなたの欲しいものはなんですか?

 あなたの欲しいものはなんですか?お金、地位、彼女、人によっていろいろあると思います。以前の僕はと言えば、「車が欲しい」「彼女が欲しい」なんてことを思っていました。そうすれば楽しいし幸せになれると思っていました。そして実際僕はそのどちらもを手にすることができたのです。

 まずは車の免許を取りに教習所に。当時はまだフリーターだったのでバイトとバイトの間を縫って通って勉強して練習しての日々でした。それが実り免許を取得。ローンで車を買いました。車があると日常がガラリと変わります。行きたいところにはすぐに行けるし友達と遊ぶにもどこで何時になんて打ち合わせはいりません。「迎えに行くわ」の一言でことが進みます。そんなことでバイトと遊びの毎日でした。そしてその末に彼女ができました

 彼女ができると日常がガラリと変わります。自分にとっても相手にとってもお互いが特別な存在です。それは生きがいと言っても過言ではないことです。

 そうやって人は自分の幸せを増やしていくのかもしれません。しかし時は進み自分の年齢も進んでいくと共に責任というものが増えていきました。就職をしたことで仕事というものの存在がアルバイトとのときとは比にならないくらい大きくなりました。もうこのとき、僕のカバンはパンパンだったのでしょう。車の維持費でお金は貯まらずやりたいことがやれない。期待に胸を膨らませて1年半前に買った車ですが、現在は売却を考えています。彼女には振られました(泣)が、きっとあのまま関係が続いていたとしても僕はいずれパンクしてしまっていたことでしょう。(大切な人生の時間を僕と共に過ごしてくれた当時の彼女には感謝しています。)

 幸せを維持するためにはコストがかかります。それはお金だったり時間だったり労力だったりします。僕らはそれらを消費して幸せを得ています。そしてそれらは僕らが持つ資産であり限りがあります。その資産を超える幸せを手にしたとしてもそれをそのまま維持するためにはそれに見合うだけのコストを払わなければなりません。自分の身の丈に合わない幸福を手放すまいとすれば、そのために全財産を払い続ける日々。借金返済のための毎日のようなものです。それはもはや幸せとは呼びません。

 ですから僕らは自分にあった幸せを自分に合った量だけ噛みしめていく必要があります。

 

幸せはカバンに収まる分だけ

 僕たちはカバンを持って人生という長い道のりを進む旅人です。人によっては一緒に荷物を持ってくれる人や、あるいはトラックを持っている人もいるかもしれませんが、人それぞれ大切な荷物があります。そして運べる荷物には限りがあり、幸せに限らず様々な荷物を各々のカバンに詰めて進んでいきます。ものが溢れかけている重いカバンを無理やり持っていこうすれば、しばらくは運べるかもしれませんが、いずれはヘトヘトに疲れてしまうことでしょう。カバンに入り切らないものは置いてゆかねばなりません。置いていった幸福はもしかするといつかまたその場所を訪れた際にまだそこにあるかもしれませんし、そうでなくてもこの道程には様々な素晴らしい幸福が沢山転がっています。一度目にした幸福はカバンに詰めて持ってゆかずとも大切な記憶として脳のメモリに刻むこともできます。

 多くを望まずに今あるものに感謝し大切にしたい。最近僕はそう思いました。あなたはどう思いますか?

生きることは食べること。自分の言葉を大切に。

 お久しぶりです。最寄 然太です。果たしてこの記事を読む人がいるのかは定かではありませんが、一応聞かせてください。皆さんはお元気でしたでしょうか。僕にもいろいろあったように皆さんにもいろいろあったと思います。お楽しみ様です。

 今回は自分語りです。興味があればお付き合いよろしくお願いします。

 

料理との出会い~食べることは生きること~

 実は僕、今年のはじめに人生初の就職をいたしました。また一つ大人の階段を登った気がします。そこは飲食店でした。

 「何のために生きるのか。」その問いは様々な捉え方があり、その数だけ答えもあります。人によって違うのです。しかし全人類に共通して言えること。それは食べなければ死ぬ、のです。他の生き物の養分を享受しなければ僕らは歩くことも話すこともできません。ですから「何のために生きるのか。」その問への一つの答えとして「食べるために生きる。」は成り立つと思います。いえ、この言い方には少し違和感を抱く方もいるかもしれません。言い方を変えます。僕らは「生きるために食べている。」のです。

 当たり前のことですが、21歳にして僕にとってはそれは大きな発見でした。いつしか当たり前だと思ってしまっていた眼の前の食事は当たり前ではなかったのです。僕らは自分達以外の命を摘み取って生きていくしかできないのです。そんなことを今更気づきました。

 僕は生きる意味をずっと探し求めていました。きっと僕と同じ人は少なくないはずです。幸せになりたい、生きがいがほしい、同じような問に同じような悩みを抱えていることでしょう。

 生きることは食べること。食べ物に携わる仕事は人間の生に直結する仕事です。そして生きるためだけでなく、美味しいものは人を幸せにしてくれます。きっと誰もが美味しいものを食べて幸せだと感じたことがあるでしょう。ありふれているかもしれませんが、それも確かに僕たちの幸福の一つなのです。そしてその幸福を作り出せるのが食に携わる職業です。

 その中から僕は料理人を選びました。数ある職業の中から、いくつかの仕事をアルバイトを通じて経験してみて、その中から見つけました。答えは身近にありました。実は僕の両親も料理人なのです。親がやっていることで自分は絶対にこの道は進みたくないと思っていましたが、そう思ったときからもうすでに始まっていたのかもしれません。

 誰かの幸せを作れる料理人になりたい。美味しいものを食べて救われる心もあるのです。そんな心を少しでも多く救うことが僕の役割なのかもしれないと、最近は早とちりしています。ちっぽけにも大層にもなりうる役割ですが、これが僕の役割ならこれを全うします。

 料理を極めるということはきっと誰とでも繋がれるということです。美味しいものを作れるということはきっとどんな人とでも美味しいという幸せを分かち合えるということです。僕はそう思います。

 あなたにとって「生きる。」とは何ですか?

 

ついに行ってきたamazarashiのライブ~言葉の力~

 個人的にずっと好きなバンド、「amazarashi」のライブを先日初めて見てきました。amazarashiが数十メートル先にいる!そんな興奮が第一印象でした。その後の感想、まずは辛口のものから。彼らが作りだす会場の空気は素晴らしいものでした。しかし、たまにMCという短いトークがありましたが、あとは曲が次から次へと演奏されていく。それがライブだろと言われたらおしまいですが、僕には少し感動に欠ける節がありました。彼らは顔を隠して活動しているため、ライブでももちろんシルエットしか見えません。個人の感想としてはもう少しストーリーが欲しかったです。もう少しトークがあって、彼らが本当にそこにいるのだという実感がほしかったというか、なんというかただ映像を見ているだけという印象を感じずにはいられませんでした。僕が単にライブ向きではないだけかもしれません。僕は普段、聴きたいなと思った曲を聴きたいときに聴きます。そこで再生する曲にはその時の自分の感情が上書きされます。その一方ライブは、こちらが行きたくて行っているわけですがプレイリストはアーティスト次第です。はい、当たり前です。あくまでの個人の感想を書きたかったのです。失礼しました。

 しかし、僕がamazarashiのファンであることに変わりはありません。やはり彼らの織りなす作品に込められたストーリーには胸が震えます。何より歌詞が他にはありません。秋田ひろむさんが選び作り出す言葉が胸にじ~んと響きます。歌手の中島美嘉さんもその一人ではないかと勝手に思っています。

 言葉も人を救ってくれます。あなたもきっと傷つけられた記憶が山のようにあるなかで、きっと誰かの言葉に救われたこともあるはずです。それが直接もらったものなのか文章や音を通して届けられたものなのか、とにかく僕らは言葉に傷つけられ言葉に救われています

 僕も自分の言葉を大切にしていこうと思いました。当たり前にあるものだからこそ大切にしていこうと。何気ない一言で周りや自分を苦しませる、そんな毒は吐きたくないものです。逆に僕が吐く息が周りの空気を浄化するような、そんな生き方をしていきたいです。それを教えてもらったライブでした。最後に僕がamazarashiの歌詞で特に好きな部分を引用しておきます。

死ぬことばかり考えてしまうのは きっと生きることに真面目過ぎるから 

(「僕が死のうと思ったのは」から引用)

 

~最後に~

 まだまだ書きたいことはありますが、それはまた次回にします。お付き合いありがとうございました。よかったら次回もまたよろしくです♪

バイト中に左足骨折して1ヶ月の休みを獲得する

 フリーターとしてアルバイトを4つ掛け持ちして生きている20歳の僕。少し前までは週7で、そのあとは週6でバイトをしていました。ところがそんな僕にある日、左足を骨折したことにより約1ヶ月間の夏休みが訪れたのです。

 

 毎日アルバイトでアラームをセットしないで寝る日はない、知らず識らずのうちに常に明日のことをその先のことを考えるようになっていたのでしょう。今に集中できなくなってしまいました。所詮未来なんて僕ら人類には予想がつきません。しかし、人生を上手く生きようとすると、なんとかその法則を見つけ出し、これから先ずっと幸せが続くことを望んでしまうのです。しかしずっと幸せなんてとても曖昧です。幸せの定義は人によってその人の状況によって変わりますし、現実は予期しないことが当たり前のように起こります。当たり前ですが、僕らにできるのはただ今を生きることだけです。

 

 しかし久しぶりの感覚でした。明日を気にせずに何も頑張らずに過ごしたのは。骨折のせいでバイト先や親など色んな人に迷惑をかけてしまっていますが、迷惑をかけるときはかけさせてもらおうと思います。その代わりに、僕が元気なときは誰かに迷惑をかけてもらおうと思います。