「この自分を愛せ」ドクター・ストレンジの2作目が哲学な件

 先日、MARVEL作品の「ドクター・ストレンジ」の2作目「ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス」の公開が始まりました。僕は友達と早速見に行ってきたのですが、なんだかこれまでのマーベル作品とは違う(と言ってもたいして作数見てない(汗))哲学的なメッセージを感じ、それが個人的に感動したのでここで書いていきたいと思います。

 

マルチバース〜様々な世界の自分

 アベンジャーズ作品では共通の概念として「マルチバース」なるものがあり、これは言い方を変えればパラレルワールドです。自分がいる世界と並行して無数に別世界が存在するという考え方です。僕の見た作品のなかでは「スパイダーバース」というスパイダーマンのアニメ作品でマルチバースがありました。そこでは様々な世界のスパイダーマンが登場します。

 今回のドクター・ストレンジでもマルチバースが主題でした。別世界に幸せな人生を送っている自分がいると知った悪役が、この自分こそが幸せになる、と他の世界への往来を可能にするために禁断の書に手を出したりいろんなことをします。そんな感じのストーリーです。

 いよいよクライマックス、物語も終盤を迎えました。ストレンジ陣営と悪役陣営がバチバチにぶつかります。そしてその戦いが終わるとき、僕は目の前のスクリーンからある哲学を教えられた気がしました。

 "自分を愛せ

 "今の人生を大切にしろ

 人生には様々な選択肢があり、その選択の数だけ違う自分がいます。違う世界で幸せに住む自分を見れば妬ましく思うかもしれません。しかし、今私たちがいるこの自分にも様々な幸福や希望があるはずです。自分を認めて許してあげることが物語の終わりであり、そして新たな自分のストーリーの始まりなのかもしれません。僕はこの映画を見たあと、そう思いました。

 

ドクター・ストレンジ1作目をチェック!

中毒性"RIPSLYME 熱帯夜 高校生" 平成の高校生!ノスタルジーなおすすめな動画

 今回はまた中毒性のあるYou Tubeの動画を見つけたのでその魅力をコンパクトにお伝えしたいと思います。

 

8年前の動画が今話題に!ノスタルジーを感じる視聴者続出!

 8年前に投稿されていた、RIPSLYMEの「熱帯夜」に合わせてダンスで高校男子4人組が校内を練り歩いたワンカット動画。なんとも言えない魅力があり、僕は「うわぁ〜俺も高校の時やりたかったぁ〜」と思ってしまいました。本当に楽しそうな彼らです。

 

なんともいえない動きと「熱帯夜」の相乗効果で頭にこびりつく!

 4人組の織り成すなんとも言えない動きとヘラヘラとふざけてる感じ。それに「熱帯夜」のテンポのいい音楽が加わればもうこれはごはんですよ」ぐらい癖になります

 

コメント欄が面白い、共感できる!

 You Tubeのコメント欄は基本的に面白くて、この動画のコメント欄もその例外ではありません。

たのむから8年たった今でも年1回この4人で集まるくらいの仲であってほしい

完全な身内ノリなのに共感性羞恥も嫌悪感も発動せずに他人も楽しめるのすごい

他の生徒が「え!なにあれ!」みたいにならずに「またやってるよあいつら」みたいな雰囲気なのがまじでいい

などのコメントがあり、まるで学際のステージを見てるようなみんなで楽しんでる感があって僕は好きですねぇ。

 

 

本家の方は少し画が刺激強めですがこれもいいですよ

youtu.be

 

 

ソロチャンネル(現在、大人になった爽やかニキが社会人のやり方で人生を楽しんでいる姿が見れます!

youtu.be

アンジェラアキさんもいつかのライブで「熱帯夜」カバーしたみたいです!

札幌市ライオンズクラブ「自殺予防に関する講習会」に参加してきました!


f:id:nenta-moyori:20220503092801j:image

 自殺予防に関する講習会、カナモトホールにて札幌医科大学神経精神科学講座主任教授の河西千秋氏(精神科医)を講師に迎え開催されました。

 市電の駅の電光掲示板でそのポスターを見た僕は興味をいだき足を運んで見ました。

 

僕が「自殺」に関心を持ったきっかけ

 いきなり個人的な話になってしまいますが、興味のない方は読み飛ばしてください。

 僕に変化が起きたのは中学生のときでした。それまではただ無邪気な小学生でした。他人を馬鹿にしたり傷つけたり虐げることもありました。そんな僕はテレビニュースで自殺報道を見るたびに

自分から死ぬなんて馬鹿だなぁ。どうして自分から死んだりするんだろう。」

なんて思ってすらいました。当時の僕にはまだ理解できなかったのです。

 しかし中学に上がり僕は、恐らく環境の変化などが引き金となって精神バランスが徐々に崩れていってしまいました。そして少しずつ漠然とした「辛い」に悩まされるようになり、そんな生活が中学時代を染めていきました。そこで僕は初めて、自ら命を殺める人の気持ちが少しだけわかったような気がしたのです。

 

河西千秋氏の心のこもった講義

 講演が何時間だったかは忘れてしまいましたが、少なくとも「長いなぁ〜。」と思うような内容でなかったことは確かです。僕のように「自殺」について関心のある素人にとってはとても興味深い内容でした。

 僕にそう思わせた要素の一つとして、教授の熱心な姿勢が声や言葉から伝わってきたことが挙げられます。教授はこのような題材についての知識がない人にもわかりやすいように噛み砕いた説明をしていましたし、コロナ対策にも注意を払い

「本当はもっと皆さんにも質問していきたい。」

と言いながらも挙手で来場者の意見や理解度を確認しながら話を進めていました。それは、最後の来場者からの質問の時間が圧迫されてしまうほどでした。そういう講演でしたから、僕は最後まで知的好奇心や自分への問題提起を持ちながら聞き続けることができました。

 

自殺する権利はあるのか?という質問に対してのアンサー

 教授はこのような「自殺」に関する講演会などで

人には自分を殺す権利があるのでしょうか?

という質問をされることがよくあるそうです。僕もそれを聞いて、「ん〜、どうなんだろう。」と悩ましく思いました。

 しかしそれについての教授の答えは明瞭でした。

 

 「自殺というものについて、自殺をする権利があるのかないのか、という議論はそもそも成り立たないと僕は思っています。」

 

教授はそう言いました。僕はそれを聞いたときは正直あまり納得できませんでした。僕は権利というなら、極論を言ってしまえば自分の命をどうしようが自分の勝手ではないかと思っていたからです。しかし、問題はそういうことではなかったのです。以下に書いていきます。

 そもそも人はどういうときに自殺を図るのか。きっと何らかの要因で精神的に追い詰められたときでしょう。しかし人間には本能として生存機能が備わっています。どんなに死んでしまいたいと思っても、心のどこかで「生きたい。」と思っている自分がいるはずです。また、我々には「レジリエンス」というものもあります。言い方を変えれば「回復力」です。一度どん底に落ちても人はそこから這い上がろうとしたり、時間の経過とともに落ち着いてきたりします。ところが、その辛い状態が続き、精神の病にまで陥ってしまうと、人間の心や身体は正常な機能を失い、自ら自分を殺めるという事故が起こってしまうのです。

 つまり、こと日本の自殺問題に関して、自分から望んで自分を殺める人はいないということです。逆に言えば、病気レベルまでいかない限り、人は自殺をしないということです。

 ここでもう一度…

「人には自分を殺す権利があるのかないのか」

もうこの議論が成り立たないことをおわかりいただけたのではないでしょうか。自分から望んで自殺する人は特殊な例を除いていません。生きたくても生きられなかった人に対して「あなたにはあなたを殺す権利があったのかな?」と問うのは余りに酷すぎます

 

自殺と自死 残された遺族

 「自殺」という言葉と比較して「自死」という響きはあまり聞き慣れないかもしれません。どちらも根本的な意味は同じですが、この2つの単語は時と場合に応じて使い分けられます。

 それは言葉から読み取れる印象が違うからです。「自分を殺す。」と「自分で死ぬ。」ではニュアンスが少し違いますよね。自殺で家族を失った遺族の悲しみは計り知れず、「自分の家族は、自殺(自分という一人の人間を殺したの)ではない。

と思う方もいらっしゃっるので、場面に応じて「自死」という言葉が使われることもあります。たしかに自殺は自分を殺すと書きますが、そうではなく、多くの場合事故と言う方が適切なのでこの考えは妥当だと思います。

 

まとめ~参加して高まる勉強への意欲

 僕は今回のような講習会に参加するのは初めてのことでした。学生時代は椅子に座ってただ話を聞くという構図が当たり前すぎて面倒くさがったり面白くないと思っていました。ところが自分も少し大人になり、興味のあることを学びに自分から足を運んでみると感じ方がガラリと変わりました。もっとこの場にいたい。もっと河西さんの話しを聞きたいと思いました。

 また、僕には知らないことがまだまだあるのだと思いました。その知らないことを知ることが勉強であり、それはひょっとすると楽しいことなのかもしれないと感じ、今後も勉強を続けていきたいと思いました。