第1章の続きです。(^o^)
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「井の中の蛙達」第2章のあらすじ
中学2年生の田中。彼がいる2年3組ではスクールカーストが出来上がり、生徒内で格差が分けられるようになってしまった。今まで中位層に位置していた彼は、あることがキッカケでクラスで最下位になってしまう。
今までは上の顔色を伺い、下を見下してきた田中。しかし、今では自分こそが、クラスの全員から見下される立場。そんな彼の心の中で、少しづつ人への見方が変わっていく...。
「井の中の蛙達」第2章 / 最寄 然太
・1・
「キモッ。」
動きを止めた世界の中で、その言葉はいつまでも耳に残り続ける気がした。
「田中くん。大丈夫?」
田中はふと我に帰った。床に散らばった文房具で固まっていた視界が、急に切り替る。まるで、見玉に貼り付けられた画像がサッと外れたようだ。
彼の目の前で、床に転がっていたはずのペンケースが差し出されている。つい先程まで無残だった光景が、一気に整った。
彼がゆっくりと顔を上げると、そこにいたのは小林だった。落ちたペンケースを小林が拾ってくれたのだ。
だが、田中は腹が立った。下位層に見下されているように感じたからだ。憐(あわ)れみを向けられているようで悔しいのだ。
田中は無言のままペンケースを奪い取った。そして早く消えろと態度で示す。
それを察したのか、小林は何も言わないまま、彼の視界から姿を消した。
・2・
窓の外を見ると雨が降っていた。それが緩やかな風に流されて、窓にぶつかる。パラパラと音がする。
ペンケースを飛ばされたとき、シャープペンが壊れた。だから今日は、新しいものを買いに行かなくちゃいけない。本当はこのまま何もしないで自室に閉じこもっていたいけど、明日は学校だから仕方がない。一番使う文房具が無いのは困る。
窓から差す、ぼんやりとした灰色の光に照らされる自室で、身支度を済ませる。親は共働きでいつも夜に帰ってくるから、家には俺1人。玄関で靴を履いて、時計が午後5時13分を表示しているのを確認。そして外に出る。店は夜の7時に閉まるから、まだまだ余裕がある。
傘を片手に見上げた空は、全体的に灰色で所々に白や黒がある。色のない景色が今の俺には心地よかった。
しばらく雨に顔を濡らした後、ようやく傘を差して目的地に向かって歩きだす。帰りは雨に濡れながら帰って来ても良いかもしれない。
シャープペンは以前と違うものを買った。850円で少し高め。芯が折れづらい構造で、本体を上下に振れば押さなくても芯が出てくるらしい。何より、デザインが良かった。金属質の赤と黒でかっこいい。
折角買ったばかりのそいつを濡らしてしまうのは気が引けたから、帰りはやっぱり傘を差して帰ることにした。
道は雨のおかげで人気が少なく、世界を独り占めしているようで、なんだか嬉しくなった。直で家に帰れば10分で着く。でも今日は少し回り道をすることにした。
ビルやアパートが立ち並んだ殺風景は、曇った空と相まって更に色をなくしている。そこから離れて、少し自然が多くなる道を歩く。もう少しで公園があるから更に寄り道をしてもいいかもしれない。
公園まではこの信号を渡ればたどり着ける。今は赤信号で、目の前を車が飛沫を上げて通っていく。この信号は結構長い。青に変わるまで2分はあるんじゃないかと思う。
道路の向こう側を右から左へ、数人の男子が歩いているのが見えた。何やらにぎやかに話している。人気がなく、雨や車の音しか聞こえない今では、その集団が少し気になる。
しかし、俺は嫌な気分になった。なぜなら、その4人組の1人が同じクラスの小林だったから。楽しそうに、他の3人と話しながら歩いている。
いつもボッチの小林が、1人じゃない。いつも暗い顔をしている惨(みじ)めな下位層が、今は友達とにぎやかに笑い合っている。
「キモッ。」
俺はそうつぶやいた。吐いた息が白くなって、目の前で薄っすらと消える。
しばらくその場に留まった後、やがて信号が青になって点滅しているのに気づいて、慌てて走り出した。
ビチョビチョに濡れているアスファルトを、履きつぶしてほとんど平らになってしまった靴底で蹴る。けど、水に滑って横断歩道の真ん中で俺はこけた。見渡すと2台の車が青になるのを待って停止している。そして歩行者信号は今まさに赤になってしまった。恥ずかしさ、申し訳無さ、苛立ち、悔しさ、悲しみ、無数の感情が一気にこみ上げてきて今すぐにここで泣きたい。けれど、落とした傘を拾って、俺は再び駆け出した。
雫(しずく)の付いた草むらに、足を濡らされながら公園に入る。ふと痛みを感じて膝に目をやると、さっき転んだときに擦りむいたようで、赤黒く滲(にじ)んでいる。
雨曝(あまざら)しの公園はひっそりと静まり返っている。聞こえるのはパラパラとした雨の音と、冷たい空気に響き渡る小鳥の囀(さえず)りだけ。そこに、俺は砂を踏みしめる音を新たに追加する。
横断歩道でころんだ後、ジーンズはびっしょりと重たくなってしまった。ポケットに入れたシャープペンのパッケージも濡れてしまったと思う。パッケージの表はプラスチックだけど、裏は紙だから、果たしてシャーペンが水の魔の手から守られているかは、確認してみないとわからない。どっちにしても、俺は全てがどうでもよく思えてきて、結局、傘を差さずに歩くことにした。
緑に囲まれる静かな公園で1人、絶望した。何がどうというわけではないけど、色々なことが辛い。
不意に、楽しそうに話す小林の横顔が浮かんでくる。楽しそうだった。でも俺は1人。俺には誰もいない。
この滅茶苦茶(めちゃくちゃ)な気持ちを少しでも紛らわそうとして、雨に打たれてみたけど、ただ身体が冷たくなっていくばかりで、心は更に悲しくなった。この雨は止むことなんてないように思える。擦りむけた膝が、ジンジンと熱くなって脈を打っているのを感じる。
・3・
上、中、下と分かれるカーストのなかで、中に位置していた俺は、何故かあっという間に最下位に成り下がった。下位層よりも下。小林よりも下。つまり、2年3組のカーストはうえから、上、中、下、俺、となった。
まずは、無視から始まった。今まで仲が良かった九条すらその例外じゃなかった。これによって俺は一瞬で孤独になった。昼休みもボッチで過ごさなくちゃいけない。
次は上位層から、様々な仕打ちを受けることになった。
まずは彼等の宿題をやらされた。今までは下位層の役目だったけど、それが一気に俺に降り掛かってきた。期日までに自分の分を含め、全ての課題を終わらせなくちゃいけない。といっても、彼等も自分が叱られるのは嫌だから、俺がぎりぎりできる量しか与えない。それでも、もし終わらせることができなかったら、罰金と称して金銭を巻き上げられる。そうでなくても、いつも金は要求されるのだけれど。
他人の宿題をやるというのは、自分のものをやるのとは訳が違う。誰かが代わりにやったことを気づかれないようにするため、筆跡を似せ、ある程度の割合でわざと間違えないといけない。ただ機械的に回答を写すだけでは駄目。
上位層がやってくるのは、この宿題地獄だけじゃない。
「え!田中くんコロッケくれるの?ありがとう~。」
などと言って、毎日一方的に大切な食料を奪われる。
文房具も同じ様にして自分のものにされる。これはあまり頻繁(ひんぱん)ではないから、新たなものを買うために使うお金も、親からの小遣いでなんとか補(おぎな)える。けど、かつあげや罰金が加わるとちょっときつい。
スクールカーストはまだ残っているけど、嫌がらせのターゲットは俺だけ。だから、ほとんどイジメと同じ。クラスの数人がある特定の1人に寄ってたかって嫌がらせをする。
正直、被害者側がこんなに辛いものだとは思わなかった。俺が今まで見下してきた奴らには申し訳なかったと思うけど、今のターゲットは俺だ。なんで助けてくれないんだという腹立たしさもある。
今は2年生の6月27日。単純に考えてあと9ヶ月はこのクラスで過ごさなくちゃいけない。そうやって、ふとした時に未来のことを考えると絶望的な気持ちになる。早く終わってくれることを願うしかない。
・4・
7月。もう少しで夏休み。もう少しで開放される。
いじめが始まってから最初の頃は、抵抗もした。相手がしてくる無茶な要求を勇気を出して断ったり、走ってその場から逃げたり。でも駄目だった。俺はどうせ中学生。月曜日から金曜日までは学校に行かなくちゃいけない。毎週。抵抗が一度成功したとしても、それは束の間のことで、すぐにまた元通り。それでも諦めないでこの暗いトンネルから抜け出す方法を自分なりに考えた。けれどいざその時になると、俺は身体が固まって何もできなくなってしまった。そのうち、全てが無駄な足掻(あが)きのように思えてきて、何もしなくなった。
夏休みに入るまでには提出しなくちゃいけない数学の課題がある。内容が難しくて、量も結構多い。この宿題においても、例によって俺は上位層の分もやらなくちゃいけない。もしそれを終わらせられなかったら、罰金を取られるし、ひどい目に合わされるしで、当然、自分の分はそっちのけで彼等のものから手をつけた。
幸いなことに終業式の日の朝に彼等からの任務は全て完了した。けれどまだ自分のものに何一つ手をつけていない。
終業式の日はいつもと違って4時間授業。午後1時には皆が帰路についた。そんな中、俺は教室で1人、居残っている。この宿題は今改めて見ると本当に量が多くて、あと何時間かかるかわからない。それに、上位層の宿題をやるために昨日は寝ていなかったから、尚更進んでいる感覚がない。
空っぽの机だけが並んだ教室はひっそりと静まり返っている。俺が動けば俺の音がする。ただそれだけ。
1時間くらいぶっ通しで作業をした。けれどまだ3分の1しか終わっていない。軽く絶望しながら、俺の意識は1時間1 5分前に遡(さかのぼ)った。
皆が身支度を終え、ぞろぞろと教室から出ていく。学校という箱庭から開放されて嬉しいのか、様々な歓声やら奇声やらが廊下に響いて聞こえてくる。
1人きりになれて、俺は嬉しくなった。ボッチの昼休みは辛いけど、それとは違う。教室にも廊下にも誰もいないから、他人からの目線は気にしなくていい。そしてなにより、上位層の奴らが一目散に駆け出ていってくれた。これが本当に嬉しかった。
俺は「さて、ようやく1人か。」と呟(つぶや)いた。人がいない教室では囁(ささや)きでも案外響く。
気が楽になったのも束の間、扉から誰かが顔を出した。それは小林だった。俺は自分だけの空間を邪魔されて腹が立ったけど、気にしないことにした。多分、忘れ物かなにかだと思う。きっとすぐに帰るはず。
小林は静かに教室に入ってきたけど、自席じゃなくて、何故か俺の方に近づいてくる。俺は宿題をもくもくとやっている風を装っていたけど、どうも様子がおかしいので小林に目をやった。
「田中くん。」
恐る恐るというように小林が口を開いた。俺はなんの用だと言わんばかりに睨み返した。
「ちょっと、話さない?」
は?一瞬、思考停止。意味を理解するまでに少し時間がかかった。今まで小林と話したことなんて皆無に等しい。なのに、コイツは一体、俺と何を話したいというのか。
俺は瞬時に悟った。きっとイジメのことだ。「大丈夫?」とか「僕にできることがあったら言ってね?」とか言ってくるんだろ。どうせ。黙れ。少し前までクラスで下の下だったお前にできることなんて何もない。俺が最下位に成り下がったおかげで、相対的に順位が上がったからって図に乗るな。俺が下がっただけで、お前は何も変われてないんだよ。
数々の罵詈雑言(ばりぞうごん)を心のなかでつぶやいても、自分が惨めになるだけだった。けれどそれを覆い隠すようにして俺は怒りを顕(あらわ)にした。
「ふざけんな。帰れ。死ね。」
ぶっきら棒に単語だけを並べた。視線を机に戻して、俺の前から消えろと態度でも示した。
「...わかった。ごめん。」
しばらくして見上げた教室には、もう誰もいなくなっていた。俺の耳には小林が言い残した、その悲しそうな声だけがいつまでも残っている。
・5・
光の色が白からオレンジに変わっていることに気づいたときには、壁の時計は午後4時23分を指していた。あれから少しずつ進めていたけど、目の前の宿題はまるで終わりそうになかった。あと半分は残っている。けれど俺のやる気はもう無い。もういっそ、このまま先生に見つからないように帰ってしまおうか。
職員室は生徒玄関がバッチリと見えるように、壁一面がガラス張り。だから普通に帰っては見つかってしまう。でも、数学の伏見先生の席は職員室の中でも奥の方だから、素早く通り過ぎればバレずに帰れる可能性はかなり大きい。
けれど、夏休みが終わった後の自分の事を考えるとその判断は明らかに誤りだ。でも、もうやる気が出ない。もう何もしたくない。このまま外が暗くなっても俺はこの教室に1人で取り残されるのだろうか。そうやって俺が1人で教室に座っていることには、誰も気づかずにそのまま校門には鍵がかけられる。もう今夜はここに泊まろうか。
くだらない想像はさておき、もう俺には宿題をする気力も、家に帰る気力もない。
そもそも、こうなったのは上位層の宿題をやっていたからだ。そうだよ。なんで俺がこんな目に。なぜ俺がイジメられなくちゃいけない。事の発端は、約一ヶ月前の国語の課題。それを終わらせていなかった片瀬は、俺に濡れ衣を着せようとした。上位層の言う事なら、下の奴らは皆その通りにする。でもそのとき、俺は濡れ衣を振り払った。こればかりは我慢がならなかったから。
それの何がおかしい?俺は真実を言ったまでだ。なんで俺だけがこんなにつらいんだ。他の奴らはあんなに楽しそうにして、それぞれの夏休みに向かって行ったというのに。俺だけ、バカみたいだ。
さっき小林に、「死ね」と言ったのは本当に申し訳なかったと思う。彼はもしかしたら、本気で俺の力になろうとしてくれていたのかもしれない。それなのに、俺はあんなにひどい言葉を投げつけてしまった。むしゃくしゃしていたからといって、なにも「死ね」まで言う必要はなかった。あれは本当にいらなかった。ごめん、小林。死ぬのは俺の方だよな。
もう本気で死にたくなって、涙がこぼれそうになったそのとき、教室の扉が開く音がした。きっと先生だ。さっき担任の三枝が教室の様子を見に来ていたから、またそれなんだろう。なぜこのタイミングで?泣きそうになっていたなんて恥ずかしすぎる。
俺は頬杖をついた右腕で顔を覆う。そして、なんでもない風を装いながらチラッとドアの方に視線をやった。
俺は目を疑った。そこに立っていたのは先生ではなく、小林だった。
「ごめん、ごめん。ちょっと忘れ物。」
小林は、俺がさっき言ってしまったことを気にしているのか、妙に腰を低くして入ってくる。自分の席に向い、机の中を覗き込んでペンケースを取り出す。そして足早に帰ろうとドアに向かっている。
「さっきはごめんな。」
これを言うのにはかなりの勇気が必要だった。一瞬の内に言おうか言わないか迷ったけど、言わないせいで胸の中のしこりがずっと残るのは嫌だったから、俺はそのしこりを吐き出すようにして、低くて独り言よりも少し大きな声で言葉を放った。
振り向いた小林の顔には笑みが浮かんでいた。
「うん。いいよ。」
胸から、しこりがサーっと消えていくのを感じた。思わずため息が出た。ほっとした。数時間、孤独で苦しい時間を過ごしたせいもあるかもしれない。人がいるとなんだか嬉しい。もちろん、人なら誰でもいいというわけじゃない。上位層がいたからといって嬉しくなるはずがない。けれど、目の前にいるのは下位層の小林で、彼は俺を攻撃してはこないから脅威(きょうい)じゃない。だからそういう奴と少しでも会話ができたのはよかった。
「あのさ、田中くん。」
ドアの近くで足を止めた小林は、少し考えるような素振りを見せたあと、なんだか改まった様子で話しかけてきた。
今度は苛立ちはなかった。一度苦い思いをしているから、今は小林に対する申し訳無さや感謝が大きい。
「なに?」
「それ、数学のやつ?」
俺が今やっている課題のことを言っているのだと思う。
「そうだけど。」
「もう、終わりそう?」
「いや、全然。まだ半分しか終わってない。」
「そうなんだ。じゃあさ、残りは手分けしてやらない?」
「え?」
意外な申し出だった。まさか、手伝ってくれると言うのか。
「え、いいの?」
「うん。残りの半分は僕がやってあげるよ。伏見先生、来るときに見たけど、まだいたから急げば間に合うんじゃない?まあ、間に合わなかったとしても、先生の机の上においておけば、出さないよりはマシでしょ。」
「ああ...、ありがとう。」
「それからさ、安心してね。」
「え?」
小林がニヤッと笑って言う。
「筆跡を真似するのは慣れっこなんだ。間違いもいい感じに入れとくし。」
「ああ。」
これには思わず笑ってしまった。でもすぐに、俺は深刻な気持ちになった。そうか、ついこの前までは下位層が、特に小林が、上位層の宿題をやらされていたんだ。そんな仕打ちを、小林は俺よりも長い間されていたのに、どうしてそんなにも他人に優しくできるのだろう。ますます小林への感謝の気持ちが強くなる。そして尊敬も。
小林は俺の方に歩いてくる。その途中で閉じた口を再び開いた。そして皮肉たっぷりに言った。
「そういう意味では、あいつらにも感謝だね。」
・6・
硝子越しに覗く職員室に、伏見はまだいた。時計に目をやると、もう午後6時を過ぎていた。それでも小林がいなかったらもっと遅くなっていただろうから、あいつには本当に感謝。
ドアを開けて「失礼します。」と言う。続けて学年と氏名。そして誰に用があるのかも。すると、近くにいた他学年の先生が少しおどけた様子で、丁寧に「どうぞどうぞ。」と言いながら手で促(うなが)してくれる。
生徒が帰った後の職員室。そこは、まばらにいる教師の和気あいあいとした雰囲気で満たされていて、まるで仕事終わりの控えめな宴会(えんかい)のようで、不思議と心地が良かった。いつもはできれば近寄りたくない場所なのだけれど、不思議だ。
俺が机にたどり着くまでの間、伏見先生の顔はいつもより疲れているように見えた。ひたすらに机の上にある紙の山を睨みながら、赤いペンを素早く走らせている。
「伏見先生。」
「ああ、田中か。もうしらばっくれて帰ったのかと思ったよ。」
「すみません...。」
「で、終わった?」
「はい、なんとか。」
「どれどれー。」
伸びて来た先生の手に、俺と小林の努力の賜物(たまもの)を預ける。
「お、一応しっかりやったみたいだねー。」
「はい。」
「ちゃんと、最後まで自分で頑張ったんだ?」
「あ、はい。」
少し罪悪感は覚えるが、そこはうなずかなくては。でないとせっかくの小林との協力が水の泡になってしまう。
「よし、これで君も堂々と夏休みを迎えることができるね。」
どう答えようか少し迷った。なぜなら、堂々とはしていられないから。宿題よりも、もっと重大なことが終わっていない。それが終わらない限り、俺はいつまでも暗いトンネルの中で過ごさなくてはいけない。でも、束の間でも、あの地獄のような日々から開放されるのは嬉しい。だからこれもまた、嘘をついているという意味で、少しの罪悪感は覚えるけど、俺はうなずいた。
「はい。」
「よし。」
先生は少し穏やかな表情になって、背もたれに深くよりかかった。
「まあさ、大変なことも色々とあるんじゃないか?」
「まあ...。」
「勉強以外のことでも先生はいつでも相談に乗るし、それは他の先生方も同じだと思う。だから自分だけで溜め込まないで、辛い時はちゃんと誰かに頼りなさいよ?」
「あ、はい、ありがとうございます。」
「で、どう?なにか話したいことはある?」
「ああ...。」
「なんでもいいよ。」
「いや、特にはないです...。」
失礼しますと言って職員室のドアを閉めた。光に満ちた職員室の温かな雰囲気とは打って変わって、廊下は照明の数が少なくなって薄暗く、そして、ひんやりと静まり返っている。
心に少しだけ温もりを感じた。まさか伏見があんなことを言ってくれるとは。今日はいつもよりなんだかおおらかだった。1学期が終わったから少しほっとしているのかもしれないし、授業以外ではあまり関わってこなかったから今までは分からなかっただけで、実は凄く生徒思いの先生なのかもしれない。俺は100%怒られるだろうと思っていたから、かなりほっとした。
本当なら相談することは確実にあるのだけれど、先生にチクったら上位層に何をされるかわからない。それに、先生に相談するっていざとなると結構難しい。
いつの記憶かわからないけど、俺は何かを大人に必死に訴えていた。だけど話しているうちに、それがあまり重大なことではないように思えてくる。そして先生も、「大したことではない。」と思っているような気がする。言葉が出なくなり、おかしいのは自分の方ではないかと思えてくる。結局、事の全容を伝える前に俺は「やっぱり大丈夫。」と言って、逃げるようにその場から立ち去った。そして、後になって後悔する。やはり俺は間違っていなかった。なんで自分はあの人に、しっかりと伝えられなかったのか。自分を責めた。その後もその人は「この前の話しだけど...。」と気にかけてくれたけど、俺は「もう大丈夫!」と明るい笑顔を作った。本当は大丈夫じゃないのに。
俺の返答を聞いて、あの後伏見先生は「そうか。まあ、何かあればいつでも声をかけてくれ。ちょっと忙しいときもあるだろうが、時間はつくるから。ほんと、いつでもな。」と、付け足した。もしかしたら、俺に残されている選択肢は、この暗いトンネルが早く終わってくれることを待つだけじゃないのかもしれない。もしかしたら、自分の力で抜け出すことができるのかもしれない。でも、やっぱり俺にはできない。
廊下に小林はいなかった。薄暗い廊下にはただ俺が突っ立っているだけで、他には誰もいない。寂しいけど、そんなもんだろ。帰ろう。
「どうだった?」
左から小林の声が聞こえた。ちょっと嬉しい。
「なんだ、もう帰ったのかと思った。」
「ごめんごめん、ちょっと用を足して来たんだ。」
俺は小林に、伏見に怒られることはなく宿題は受け取ってもらえたことを伝えた。それを聞いた小林は「やったね。」と親指を立てて笑った。そしてちゃんと俺は「ありがとう。」を言えた。2人とも笑った。お互いの仲が少しだけ近くなるのを感じた。
・7・
外はまだ少し明るい。校舎を出た右の空は太陽は見えないが、オレンジとピンクがぼんやりと残っている。それは、その反対側の青黒い空と混ざって、中間を紫色に染めている。それが美しくて田中はしばらくの間、頬をなでる涼しい風に撫でられていた。
「あのさ。」
街灯が照らす暗い帰り道を2人で歩いている。別れ際に小林が言った。
「よかったら、夏休み中、うち、来ない?」
田中は数学の宿題という重荷から開放されてしばらくの間、この夜の向こうにある暗闇を忘れていた。まだ自分が暗いトンネルから抜け出せていないことを、忘れていた。
今自分が人生のどこに立っているのか、彼にはわからないだろう。未来のことなんて想像もできないだろう。今を生きるので精一杯なのだ。
だが、永遠に続くと思われる彼のその暗闇にも、少しだけ光が見え始めているのかもしれない。都会の明かりに負けてしまう星達のように、微かな微かな光が。
つづく...
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(※2020.7.16 追記)